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人々と火山の噴火

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人々と火山の噴火

雲仙火山で有史以来起きた3回の噴火のうち、平成噴火と寛政噴火については詳細な記録が残されています。人々が火山噴火にどのように臨んだのかを学ぶ事が出来ます。

 

平成噴火

雲仙火山では、3回の噴火が記録されています。最古の噴火は1663年、次の噴火は1792年、そして最新の噴火は1990〜1995年の噴火です。このページでは、最近の2回の噴火の概略を紹介します。

 

平成新山

平成新山01平成新山02平成新山03
雲仙岳災害記念館から見た平成新山水無川から見た平成新山垂木台地から見た平成新山

平成新山は、火口から湧き出してきた溶岩が冷えて固まってできた山です。1991年5月20日から5年間ほど続いた溶岩の噴出により成長した山で、日本で 一番新しい溶岩ドームです。噴火終息宣言直後の山頂の標高は、1486メートルでしたが、その後の頂部の崩壊や、溶岩ドーム自体の”たるみ”により、現在は1483メートルとなっています。この溶岩ドームは粘性の高いデイサイト質の溶岩で、わき出し場所を変えては斜面上に張り出し、先端が崩落を起こしました。その結果,火砕流が繰り返し発生し、尊い人命がたくさん奪われました。

 

千本木の火砕流堆積物

千本木
千本木地区を襲った火砕流堆積物を観察することができます。これらの火砕流堆積物は、噴火当時の地震計の記録と、噴火後の詳しい地質調査から、何月日の何時何分におこった火砕流の堆積物かが分かっています。
 
 

島原大変/眉山の山体崩壊と流れ山

島原大変(流山)
花木公園からみた眉山
1792年5月21日夕刻、島原市の西にそびえる眉山は大地震によって大崩壊しました.その土砂は有明海に流れ込み、大津波を起こしました。その被害は、島原半島ばかりではなく、対岸の熊本側まで及び、有史以降日本の火山災害史上最大の被害となっています。
右写真は、花木公園から見た眉山の崩壊地形。切り立った断崖絶壁が、当時の崩壊のすさまじさを今に伝えています。
 
 

ひょうたん池公園

ひょうたん池公園
眉山の大崩壊した土砂がつくった小山(流れ山)の上にあります。その大きさは現存する流れ山のなかで最大級のものです。その表面の起伏を利用して池がつくられ、その後ひょうたん池公園として整備されました。ここからは、眉山が崩れた時にできた巨大な壁を正面に見ることができます。
 
 

仁田団地第1公園

仁田第1公園

1792年、島原市の西にそびえる眉山は、雲仙普賢岳噴火の最末期に頻発した大きな地震によって崩壊しました。崩壊した土砂は岩屑なだれとなって、当時の島原の町の南側を埋め尽くしただけでなく、一気に有明海に突っ込んで大きな津波を発生させました。この津波は対岸の肥後の国(熊本)にも押し寄せ、島原半島、熊本側の双方で甚大な被害を引き起こしました。この災害による犠牲者は15000人に達し、有史以降、国内最大の火山災害となっています。 島原市仁田団地第一公園の展望所からは、山側に眉山の生々しい崩壊壁が観察出来るほか、市街地に流れ下った岩屑なだれが、無数の「流れ山」を形成している様子が一望の下に観察出来ます。海に流れ込んでできた流れ山は九十九島(つくもじま)と名付けられました。 島原大変から20年後に伊能忠敬が測量した時には45あった島々(国土交通省九州地方整備局雲仙復興事務所 2007)は、浸食や水没により現在は17と数を減らしています。
 

秩父が浦公園

秩父が浦公園
1792年、島原市の西にそびえる眉山は、雲仙普賢岳噴火の最末期に頻発した大きな地震によって崩壊しました。崩壊した土砂は岩屑なだれとなって、当時の 島原の町の南側を埋め尽くしただけでなく、一気に有明海に突っ込んで大きな津波を発生させました。この津波は対岸の肥後の国(熊本)にも押し寄せ、島原半 島、熊本側の双方で甚大な被害を引き起こしました。この災害による犠牲者は15000人に達し、有史以降、国内最大の火山災害となっています。
島原市仁田団地第一公園の展望所からは、山側に眉山の生々しい崩壊壁が観察出来るほか、市街地に流れ下った岩屑なだれが、無数の「流れ山」を形成してい る様子が一望の下に観察出来ます。また、島原市秩父が浦公園付近では、海食により流れ山の内部がよく観察出来ます。
 
 

白土湖(しらちこ)/音無川

白土湖  音無川
1792年、島原市の西にそびえる眉山は、雲仙普賢岳の噴火の最末期に生じた大きな地震によって大崩壊を起こしました。この崩壊に伴って生じた窪地に、周 囲の井戸からあふれた水がたまって出来たのが白土湖です。白土湖は、現在は南北約200m、東西約70mほどの大きさがありますが、形成当時は今の約4倍 に当たる、南北約900m、東西約200mの大きさがあったそうです。
白土湖の出現により、当時の主要街道である島原街道は寸断されてしまいました。その後も水の湧出は止まらず、街道の寸断は続いたため、この水を排水する ための水路が建設されました。この水路は山体崩壊が発生する前の海岸線の形にほぼ一致し、勾配が緩やかで、水の流れる音がほとんどしない事から、「音無川 (おとなしがわ)」と名付けられました。
白土湖の湖底からは現在も大量の水がわき出しており、その量は1日あたり4万トンと推定されています。明治末には、この豊富な湧水を利用した酒造所やラム ネ工場が湖畔にありました。酒造所は今でも白土湖畔に軒を構えているほか、湖畔には米や野菜を洗うための洗い場も設置されており、今でも住民の生活用水の 一部として利用されています。
 

清水川

清水川
1792年(寛政4年)の島原大変により、水脈が枯れて日常生活に支障をきたすようになりました。そこで庄屋下田吉兵衛を中心として村人は水源を探しましたが、なかなか見つけることはできませんでした。しかしある夜、庄屋の夢枕にお告げがあり、このお告げが水源を発見するきっかけとなりました。その後、村人と協力して1821年(文政4年)に、約5キロを木桶で水道を完成させました。しかし、年々木桶の水道は痛みがはげしくなり、1857年(安政5年)に切石で水路を作り、水道を改修しました。長い間村人に利用されてきましたが、水道事業の普及により忘れ去られ、また1990年からはじまった「平成噴火」により、火砕流と土石流のため水源である岩上山は厚い土砂に埋没してしまいました。
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