島原半島を納めた武将たちは、既存の地形を上手く利用する事によって城を建立しました。半島に伝わる巨人伝説は、雲仙の山々を舞台に繰り広げられたものです。島原半島に暮らす人々の歴史や文化は、その地形や地質にふかく根ざしています。
数千年前の眉山の崩壊でできた流山の一つに森岳があった。1618年(元和4年)から松倉重政は、当時森岳と呼ばれていた高地を城のかたちに切り取って石垣を積み、堀をめぐらせて7年の歳月を費やして島原城を築城した。石高に不相応な築城にかかる課役は農民に重くのしかかり、1637年の島原の乱の原因となった。大手門では反乱軍との攻防もあった。現在は、天守閣にキリシタン史料並びに藩政時代の郷土資料・民俗資料等を展示しています。
島原城築城の時、外郭の西に接して扶持取70石以下の武士たちの住宅団地が建設されました。戦いの時には鉄砲を主力とする徒士(歩兵)部隊の住居であったので、鉄砲町とも呼ばれています。街路の中央の水路は豊かな湧水を引いたもので、生活用水として大切に守られてきました。
戦国時代、有馬氏と龍造寺氏は覇権を争っていました。1584年神代から上陸した龍造寺隆信の軍5万7千は三会に集結しました。これを迎え撃つ8千の有馬晴信・薩摩の軍は森岳に陣取りました。湿地の中の一本道、沖田畷(なわて)の地の利を生かした有馬氏が勝利し、島原半島を統括しました。
国指定の史跡で、幕末における小藩経営の薬草園とはいえ、「日本三大薬園跡」の一つに数えられ、奈良県、鹿児島県の薬園跡に比べても、よく遺構をとどめた第一級の史跡です。