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島原城築城

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島原城築城

 有馬氏の転封後、佐賀藩鍋島氏・平戸藩松浦氏・大村藩大村氏の委任統治領となっていた日野江藩に、元和2年(1616)、大坂の役の功績により松倉重政が大和五条二見藩(奈良県五條市)から島原へ入封します。
 松倉重政は、当初、日野江城に入り藩政を行いますが、日野江城は建保年間(1213年~1219年)に築城された、戦国時代の山城が元となる基本設計が古い城であり、江戸時代の領地支配の為の城としては不便だったようです。また、原城は、三方が海に面した堅城ではありましたが城下町となる空間が狭いなど、城下町建設の点で不都合だったようです。また、旧領主有馬氏が支配していた中心地から離れたいとの考えもあったと思われます。さらに、慶長二十(1615)年に幕府から一国一城令が出されたため、いずれかの城は廃城しなければならず、軍事面での防御と政治面での統治、城下町の発展まで含めた松倉重政が思い描く城郭の縄張りには、両城とも不都合だったと考えられます。
 このため、重政はかつて有馬氏が「沖田畷の戦い」で敵軍に勝利した縁起の良い土地でもある島原に城の新規築城を幕府に願い出てこれを許され、元和四(1618)年から島原城の築城を開始し、寛永元(1624)年まで約7年の歳月をかけて完成しました。一国一城令が出された後に新規築城が許された例は、幕末の諸外国に対する海防を考慮した城郭の築城を除けば、石見国浜田藩の浜田城と肥後国肥後藩八代城と島原城の三城のみであり、非常に稀なケースといえます。島原城の築城により、これ以後、島原が島原半島の政冶、経済、文化の中心となっていきます。

 

 絵図(島原城内外古図:肥前島原松平文庫所蔵)によると島原城は、戦国時代に築城された「浜の城」の城下町の北側に、この城下町の軸線と南北軸を違えるようにして築かれています。
 城郭の規模は、東西200間(約363m)、南北688間(約1250m)のほぼ長方形の外郭で、外郭南端に一辺が30間(約54m)もある巨大な外枡形の大手が配され、周囲に7箇所の城門と33の平櫓を設け、石垣と塀を巡らせています。
 外郭の石垣塁線には規則的に突出させた11ヶ所の櫓台を築いて平櫓を配置し、平櫓からの鉄砲・弓矢による「横矢掛かり」を外郭塁線全体で行えるようにすることで城の防御力をさらに高めている。このような構造は国内の他の城郭には見られない島原城の特長のひとつです。
 外郭内部は、南から本丸・二ノ丸・藩主の御殿がある三ノ丸を配し、その周囲には上級藩士の屋敷が並びます。本丸・二ノ丸の周囲と、三ノ丸の東側と南側に堀が穿たれ、本丸と二ノ丸の間は廊下橋、二ノ丸と外郭の間は土橋が掛けられます。二ノ丸から本丸の天守に至る通路は、石垣と櫓門の配置により枡形が連続する経路を作り出し、シンプルだが極めて防御力の高い構造となっています。また、本丸には五層の天守のほか、その周囲に三重櫓、二重櫓、平櫓、を要所に配置し、本丸に侵入した敵に対して互いの櫓が連携して攻撃できる縄張となっています。城の西側には下級藩士の屋敷、東側には城に直接隣接する町家が城下町として形成され、残りの周囲は田畑となっています。

 

島原城内外古図

 

島原城内外古図(肥前島原松平文庫所蔵)



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