キリシタン大名である有馬晴信の所領であった島原半島は、キリスト教の信仰が盛んな地でした。
徳川幕府は慶長17(1612)年に禁教令を出しキリスト教を禁じていました。
元和2(1616)年に島原藩に入封した松倉重政は、当初キリシタンに寛大な政策をとっていたましが、寛永2(1625)年に将軍徳川家光にキリシタン対策の甘さを指摘された後、キリシタンの徹底的な取り締まりと弾圧を強化し、二代勝家も重政以上のキリシタンの弾圧と農民に重税を課しました。
それらが一因となり寛永14(1637)年島原の乱が勃発します。この時藩主勝家は参勤交代で江戸にいたため不在で、島原に残っていた家老達の指揮で一揆勢に対処しました。島原藩の兵は一旦深江村まで出兵し、一揆勢と戦いましたが、勢いに乗る一揆勢は島原城下に及びました。一揆勢により城下の町家や寺社、鉄砲町等が焼き払われ、藩士と城下の町人らは島原城に籠城しました。島原城は追手門(大手門)大手門や桜門が攻撃を受けますが守り抜き、一揆勢は進路を変え、すでに廃城になっていた原城に籠城することになりました。
この乱により島原城は、江戸時代に築城された近世城郭で、実戦を経験した数少ない城の一つとなりました。
その後、一揆の知らせを受けた幕府からは幕府からも一揆鎮圧の指揮官が派遣され、一揆勢が籠城する原城を、佐賀藩鍋島氏、筑後柳川藩立花氏、久留米藩有馬氏、島原藩主勝家からなる3万4千の軍勢が包囲しました。4度に渡る総攻撃の末、幕府軍は一揆を鎮圧しました。乱が鎮圧された後、藩主松倉勝家は責任を受け斬首刑となりました。