流れ山(秩父が浦公園) |
寛政4年(1792)4月1日夜、島原城下町の裏にそびえている眉山が崩壊して町を埋め尽くし、大津波が発生しました。その被害は、「死人1万184人、本家流失1万665軒、破損本家2932軒、破損田313町余、破損畑115町余」と記録されているとおり、大打撃を受けました。
大津波が領内の村々や対岸の熊本・天草を襲い、合わせて1万5000人もの人たちが流死しました。
そのため、この災害は「島原大変肥後迷惑」と呼ばれています。
島原地方では、前年から地震が続いていました。年が明けると普賢岳が噴火を始め、流れ出した溶岩は山を下り、谷を埋めて杉谷村千本木へ迫って来ました。続いて、眉山の崩壊です。
この時、眉山の6分の1にあたる4億立方メートルの土石が崩れ落ちたそうです。
大手御門前から南の城下町が、厚い土砂に覆われました。
同時に発生した津波は、高さ10メートルに達し、北は山田村(雲仙市吾妻町)から、南は南有馬村(南島原市南有馬町)まで、22町村に被害をもたらしました。
日本災害史上1、2にあげられる大災害に見舞われたのです。領内で1万人もの死者を出すほどの大災害でしたから、島原藩にとってはその復旧が大問題となりました。
忠恕藩主は守山村(雲仙市吾妻町)へ引っ越しましたが、心労のため、その地で死亡したほどです。
眉山の崩壊によってつくられた地形や史跡が島原には多数残されています。
また、この際噴出した湧水は生活の中へ取り入れられ、現在も利用されています。