<島原城まで徒歩 約10分/約550m>
島原城(森岳城)のあるところは、数千年前の眉山の崩壊でできた流山の一つで、昔は四壁山または森岳と呼ばれ、木々のおいしげった山でした。
天正12年(1584年)沖田畷の戦いの時には、有馬・島津連合軍がここに本陣を置き、龍造寺軍を撃破しました。 元和2年(1616年)6月、松倉重政は大和の国(奈良県)から島原に国を移されると間もなく、当時森岳と呼ばれていた高地を城のかたちに切り取って石垣を積み、堀をめぐらせて7~8年の歳月を費やして島原城を築城しました。
しかし、七万石の大名の城としてはふつりあいに大きいと言われるこの島原城の築城と城下町の建設には莫大な出費がかさみ、住民に重税を課し、その後のキリシタン弾圧と相まって「島原の乱(1637年)」の原因となりました。
島原の乱の猛攻にも耐え、寛政4年(1792年)の島原大変の地震と大津波にも耐えましたが、明治3年(1870年)に城の一切の普請が停止され、次々に入札払になり、明治9年(1876年)には天守閣も解体されてしまいました。
昭和32年、全国初の城跡公園に指定され、昭和35年(1960年)西の櫓、昭和39年・天守閣、昭和48年・巽櫓、昭和55年・丑寅の櫓が再建されました。
現在の天守閣には、キリシタン史料並びに藩政時代の郷土史料、民俗史料等が展示されています。
<鯉の泳ぐまち周辺まで 徒歩約15分/約800m>
新町一帯は湧き水が豊富で、全長100メートルの水路があり、別名「鯉の泳ぐまち」と呼ばれています。 鯉の泳ぐまちは、この地域の町内会の人たちが町内を流れる清冽な水路を生かしたまちづくりと、子どもたちの豊かな心を育てるために昭和53年7月水路に色とりどりの鯉を放流したのが始まりです。その後放流には、町内会を中心に多くの市民も協力し、水の都島原を代表する名所となっています。 島原には至る所に湧水があり、昭和60年1月環境庁から「島原湧水群」として日本名水百選に指定されておりこの流れもその一つです。